酷く疲れる昼休みを終えてデスクに戻れば、机の上には眞杉《ますぎ》さんからと思われるメモが置かれていて。きっと謝罪の言葉が書かれているのだろうなと思うと、鷹尾《たかお》さんに協力すると約束したことが申し訳なくなる。
眞杉さんだってあれだけあからさまに避けるのだから、何か理由があるのだろうに…… 「あーあ、これからどうしよう」 メモの中身を確認して、これから眞杉さんにこの事をどう話すかに頭を悩まる。 この日の午後は仕事が思うように捗らなくて、結局二時間ほどの残業をして帰る事になってしまった。 それが良くなかったのか…… 「あれ? 横井《よこい》さんも帰りはこっち方面なの?」 「……ええ、そうだったかもしれませんね」 今日はもうこの顔を見なくていい、声も聞かずに済むのだと思ってたのに。どうして帰りの電車でまで、《》この人と同じ時間を過ごさなきゃならないの? せめて車両が違えば気にしなくていいのに、どうして私がいつも乗り込む車両に梨ヶ瀬《なしがせ》さんがいるのか。 「凄い適当な返事だね? 俺は一応、君の上司なのに」 「勤務時間は終わってますし、今日はもう精神的に限界なんです」 朝から梨ヶ瀬さんの存在に酷く気を使って、クタクタなんですよ。もう放っておいてもらえます? そう言いたいのに、彼は私の隣にぴったりと張り付き離れてくれそうにない。 「まあいいんだけどね、横井さんのそういう正直なところは見ていて面白いし?」 「はあ、そうですか。別に梨ヶ瀬さんを喜ばせるために、そうしてる訳ではないんですけどね」 むしろ嫌われようと取っている態度を、そんな風に喜ばれても嬉しくもなんともない。やはりこの人はどこかズレた感覚の持ち主なんだろうな、なんて事を疲れた頭の中で思い浮かべていた。 いつの間にか梨ヶ瀬さんは、私の身体を壁とその両腕で囲むようにして立っている。 いったい何のために? そう思っていると…… 「……横井さんはいつもこの時間に、この車両に乗っているの?」 何度も見たこの作り笑顔と笑わないその瞳、だけど何だか少し雰囲気が違って見える。背筋がひんやりとするような、なんとなく嫌な感じ。 「いえ、普段はもう少し早く帰路につくので」 「ふうん」と梨ヶ瀬さんは顎に手をやりなにやら考えているような仕草をするが、彼が何を言いたいのかさっぱり分からない。 「あの、梨ヶ瀬さん。私そろそろ……」 降りる駅なので……と言いかけたその時、フッと梨ヶ瀬さんが私の距離を縮めて耳元で囁いた。 「右斜め後ろ、さっきから君の事をジッと見ている緑のパーカーを着た男がいるけど……横井さんの知り合いじゃないよね?」 「……え?」 なんのことか分からずゆっくりと目だけを動かしてその方向を確認してみる。 ……そこにいるのは、私には見覚えの無い男性だった。「あら、そうですか。梨ヶ瀬《なしがせ》さんのご期待に添えられなくて、どうもすみません」 楽しそうな梨ヶ瀬さんを見ると、出てきてしまうのは憎まれ口ばかり。上司である梨ヶ瀬さんに自分の印象を悪く見せてしまっている私もどうかしてる。 それなのに、どうしても彼に好かれたいとは思えなくて…… 「あはは、面白いくらい感情のこもっていない言葉だね。横井《よこい》さんのそういうところ、本当に飽きないなあ」 私は今すぐにでも飽きて欲しいですけどね、貴方に気に入られるなんて大迷惑です。そうやってこの人に、ハッキリと言えたらいいのに。 ……でも、上司相手にそんな事を言うわけにはいかないから。「私はもうすぐ降りなきゃいけないんです、その手をどけてくれませんか?」 いまだ私を囲むように、両腕を壁についたままの梨ヶ瀬さんを睨みつける。ここで降ろしてもらえなきゃ、私だって困るのよ。「今降りたらあの男ももれなく君について来るけど、横井さんはそれでもいいの?」 梨ヶ瀬さんのその言葉で緑のパーカーの男性も、まだこの車両に残ったままなのだと気が付いた。やはり彼はチラリチラリと私達の様子を窺っている。「何故、そう言い切れるんです? 少なくとも今まで、あんな男性が私の後ろをついて来た事なんて……」「……本当に分からない? もし気になる女性にちょっかい出してる男がいきなり現れでもしたら、普通は焦ると思わない?」 ……梨ヶ瀬さんの言葉に一瞬呆けてしまった。 えっと、なに? それってつまり……今、貴方が余計な事をしてくれちゃってるからって事ですよね!? 「どうしてそんな余計な事をするんですか! 梨ヶ瀬さんが隣にいなきゃ、あの人を刺激することも無かったかもしれないんですよね?」 なんの気まぐれで私にちょっかいを出しているのか知らないけれど、お昼の鷹尾《たかお》さんの件の事も含めて本当にいい迷惑だわ。私がそうやって梨ヶ瀬さんに詰め寄れば、彼は「あはは」と楽しそうに笑う。「でも、ほら。危険な芽は早いうちに摘んでおきたいじゃない、横井さんのためにも……俺の為にも、ね?」「はあ? 貴方は何を言って……」 私の為にはまだ分かるけど、何が梨ヶ瀬さんのためになるのか分からない。けれど聞き返そうとした瞬間に、梨ヶ瀬さんが私の手を掴んだと思ったらそのまま降車口へ連れて行かれて……「ちょっと待っ
「あの男性が、私を……ですか?」 梨ヶ瀬《なしがせ》さんの言う事が信じられずに、もう一度確認してみる。確かにこっちを見ているように見えなくもないけれど、何故よりによって私なのだろう? だって……少なくとも私には、その男性に見つめられるような心当たりはなかったから。「彼のあの様子だと今日が初めてって、感じではなさそうだけど? 横井《よこい》さんって、結構そういうとこは鈍そうだもんね」 はあ!? 私は今までずっと、周りの人から『鋭いね』言われてきましたけど! そういうとこがどういうとこかは知りませんが、勝手に私の事を理解した気にならないでくれません? そう大きな声で言い返したいのに……彼が「静かに」と言うように、私の唇に人差し指をくっつけたりするから何も言えないでいる。 当たり前のように、私に触れるのはどうしてなんですか? 自分が想像してたよりも、温かな彼の指先に私は戸惑う。梨ヶ瀬さんの指先はもっと冷たいんじゃないかって思ってたのに。「…………じゃないの?」「えっ、あの……今なんて?」 梨ヶ瀬さんの熱に集中してしまって、彼の話をちゃんと聞いていなかった。そんな私を梨ヶ瀬さんはちょっと驚いたような顔で見てたけど、すぐにニッコリと微笑んで……「ねえ、麗奈《れな》。俺の話をちゃんと聞いて?」 どうして私の事を、いきなり名前で呼ぶんです!? 嫌がらせかなにか分からないけれど、普段呼ばれない名前を異性に呼ばれ顔に熱が集まる。「何で梨ヶ瀬さんが、私の名前まで知ってるんですか? まさか、私の事が気に入らないからってわざわざチェックしたとか……」 やはり、あのお手洗いでの会話がまずかったのかもしれない。第一印象の悪い部下として、この人に目を付けられたとしか思えなかった。 だけど梨ヶ瀬さんは私の言葉にキョトンとした表情をした後、何かを堪えるように俯いて肩を震わせていて。「ふはっ、ちょっ……なんでその発想になるの? こういう反応は、流石に予想してなかったかな」 もしかしてこの人、笑ってる? 今の会話のどこに、そんな笑いを堪えなきゃいけないような要素があったっていうのか。こっちは訳が分からないというのに、梨ヶ瀬さんはまだその身体を震わせ笑いを押し殺している。 何だか、すっごく腹が立つんですけど? やっぱり私は、梨ヶ瀬さんに揶揄《からか》われている
酷く疲れる昼休みを終えてデスクに戻れば、机の上には眞杉《ますぎ》さんからと思われるメモが置かれていて。きっと謝罪の言葉が書かれているのだろうなと思うと、鷹尾《たかお》さんに協力すると約束したことが申し訳なくなる。 眞杉さんだってあれだけあからさまに避けるのだから、何か理由があるのだろうに……「あーあ、これからどうしよう」 メモの中身を確認して、これから眞杉さんにこの事をどう話すかに頭を悩まる。 この日の午後は仕事が思うように捗らなくて、結局二時間ほどの残業をして帰る事になってしまった。 それが良くなかったのか……「あれ? 横井《よこい》さんも帰りはこっち方面なの?」「……ええ、そうだったかもしれませんね」 今日はもうこの顔を見なくていい、声も聞かずに済むのだと思ってたのに。どうして帰りの電車でまで、《》この人と同じ時間を過ごさなきゃならないの? せめて車両が違えば気にしなくていいのに、どうして私がいつも乗り込む車両に梨ヶ瀬《なしがせ》さんがいるのか。「凄い適当な返事だね? 俺は一応、君の上司なのに」「勤務時間は終わってますし、今日はもう精神的に限界なんです」 朝から梨ヶ瀬さんの存在に酷く気を使って、クタクタなんですよ。もう放っておいてもらえます? そう言いたいのに、彼は私の隣にぴったりと張り付き離れてくれそうにない。「まあいいんだけどね、横井さんのそういう正直なところは見ていて面白いし?」「はあ、そうですか。別に梨ヶ瀬さんを喜ばせるために、そうしてる訳ではないんですけどね」 むしろ嫌われようと取っている態度を、そんな風に喜ばれても嬉しくもなんともない。やはりこの人はどこかズレた感覚の持ち主なんだろうな、なんて事を疲れた頭の中で思い浮かべていた。 いつの間にか梨ヶ瀬さんは、私の身体を壁とその両腕で囲むようにして立っている。 いったい何のために? そう思っていると……「……横井さんはいつもこの時間に、この車両に乗っているの?」 何度も見たこの作り笑顔と笑わないその瞳、だけど何だか少し雰囲気が違って見える。背筋がひんやりとするような、なんとなく嫌な感じ。「いえ、普段はもう少し早く帰路につくので」「ふうん」と梨ヶ瀬さんは顎に手をやりなにやら考えているような仕草をするが、彼が何を言いたいのかさっぱり分からない。「あの、梨ヶ瀬さ
「あのー、大丈夫ですか? その、眞杉《ますぎ》さんは少し人見知りな所があるので」「……知ってる、これが最初なわけじゃないし」 なるほど。 どうやらこの男性はかなり眞杉さんにご執心らしく、先程眞杉さんから逃げられたショックから立ち直れずにいるらしい。 しかし目の前の男性、スッキリとした短髪にキリッとした顔つきで清潔感がある。人も良さげだし、悪い感じはしなさそうだけど……眞杉さんはなぜ、彼のことを避けているのだろう?「仕方ないんだ。彼女には俺みたいな男は『タイプじゃない』って、一度ハッキリ断られてるし」「えっ、あの眞杉さんがですか!? それっていつの話です?」 あの大人しい眞杉さんが、どうしてこの男性を振ったりしたのだろう? つい最近、彼女が言っていた『彼氏が欲しい』という言葉はいったい何だったの?「三年前の彼女の誕生日。あの日は俺としてはもの凄く気合を入れたんだ、だけどあっさりと振られて……その後はずっと逃げられてる」「三年も前に、ですか……?」 そんなに前からこの人は眞杉さん一筋なんだ……そこまで思われている彼女がちょっとだけ羨ましい気もしないでもない。まあ、眞杉さんが逃げてる理由を知らないからそう思えるのかもしれないけれど。 でもちょっとだけ、報われて欲しい気もしないでもない。「……ねえ、横井《よこい》さん。ここまで話を聞いたんだから、コイツに協力してもいいかな? なんて思ったりはしない?」「……はい? 私が、ですか?」 目の前で微笑んだままの梨ヶ瀬《なしがせ》さん、彼は何と言った? 一度梨ヶ瀬さんを見つめて今度は男性に視線を移すと、すでに彼はキラキラと期待の眼差しを私に向けていて……「えっと、協力なら梨ヶ瀬さんがいれば十分じゃないですか? 私は話を聞いただけで、どう考えても無関係ですし」「それがね、赴任してきたばかりの俺に出来る事なんてそれほどないんだ。横井さんは眞杉さんと仲も良いようだし、鷹尾《たかお》を助けると思ってね?」 鷹尾さんという名の男性は梨ヶ瀬さんの隣で大きく頷いている。やめて欲しい、どんどん断りづらい状況を作られてるとしか思えない。「ですが……」「別にいいんだよ、断っても。だけど横井さんが眞杉さんと親しいと分かった以上、これからは遠慮なく君を巻き込ませてもらうから」 はい? それって脅迫じゃないの
「じゃあ、これからは俺達がこの席を使わせてもらおうかな? 別に良いよね、眞杉《ますぎ》さんも横井《よこい》さんも」 良くない。全然良くありませんから、今すぐ別の席に行って貴方の取り巻きと楽しんでてよ! 本当はそう言いたいけれど相手は自分の上司、そんな反抗な態度ばかり取るわけにもいかず……口の端を引きつらせながら「どうぞ、お好きなように」と言うことしか出来なかった。 何のつもりなのか、もしかして私に対する嫌がらせのつもりだったりするの? しかし梨ヶ瀬《なしがせ》さんはさっきからニコニコと微笑んでいて、その本音を知ることは出来ない。 どうしようかと隣を見ると、眞杉さんが慌てた様子で食事を終わらせていて……「私、お先に失礼しますねっ! 皆さんは、どうぞごゆっくり」「え、ええ? ちょっと、眞杉さん?」 そう言って立ち上がり食事のトレーを持つと、急いで返却口へと歩き出して。彼女はそのまま、逃げるように食堂から出て行ってしまった。 ……私をこんな状況で一人だけにしないでよ、眞杉さん。 こうなったら私もさっさと食事を終わらせて、ここから離れるしかない。 そう思って食事を再開しようとすると……「……また逃げられた」 梨ヶ瀬さんの隣に座る男性社員がポツリとそう呟いて、がっくりと項垂れてしまった。えっと、逃げられたってもしかして眞杉さんの事?「おや、残念。さすがにこの反応は、脈無しなんじゃないのかな?」 先程から変わらない笑顔の梨ヶ瀬さんにハッキリとそう言われて、ますますその男性の頭が下がっていく。これってつまり……この人が眞杉さんの事を、って事よね? それにしても、梨ヶ瀬さんとこの男性社員はどういった関係なのだろう? 彼は本社からこの支社に来たばかりのはずなのに、二人はとても打ち解けた関係のようだけど。 そんな疑問が顔に出ていたのか、梨ヶ瀬さんはそんな私を見て少し首を傾げてみせてこう言ったのだ。「ん、俺の事が気になるの? 横井さん」 この人って、絶対性格悪いとしか思えなくない? そんな聞き方をされて「はい」と言ったら、私が梨ヶ瀬さんの事を特別な意味で気にしてるみたいに聞こえるじゃないの。 梨ヶ瀬さんはきっと、可愛くない部下の私の反応を楽しんでいるに違いない。 それならば……「いいえ、全く気にしていません。梨ヶ瀬さんこそ、そんなに私に自分の
「あの、どうかしたんですか? 横井《よこい》さん、眉間のしわが凄いことに……」 そう眞杉《ますぎ》さんから言われて慌てて顔を上げる、すると彼女はギョッとした表情で私を見る。眞杉さんは大きな眼鏡をしているが、その表情は豊かでとても分かりやすい。 それにしても、凄い眉間のしわっていったいどういう……?「ご、ごめんなさい! 私何か横井さんを怒らせるような事言っちゃいましたか?」 慌てる眞杉さんに、私はますます訳が分からなくなる。どうして? そう訊ねようとした時、カウンターの方からこちらに向かってくる梨ヶ瀬《なしがせ》さんを囲んだ女性社員達が目に入った。 どうしてこっちに向かって来るのよ!? どう見たってそんな人数の席は空いてないでしょ! そう、私の周りは見てわかる通りもうほとんど席が空いていない。空いているのは私の隣の席と……眞杉さんの横だけだ。 絶対こっちには来るなと祈っているのに、彼らは真っ直ぐにこのテーブルの横まで来て……「うーん。席、空いてないねえ?」 そんなのちょっと見れば分かるでしょう? いちいちここまで来て確認しないと分かんない程、近眼なんですかね。そんな梨ヶ瀬さんの、のんびりした口調にイライラしながら箸でから揚げを刺す。「ねえ、梨ヶ瀬さん。あっちに行きましょう、ここじゃあ私達が一緒に座れません」 ええ、是非そうしてください。さっさとその女性社員を引き連れてどこへでも! 目の前の眞杉さんの顔色がどんどん悪くなっている気がするが、こっちが気になりそれどころじゃない。「横井さん、顔がどんどん酷い事になってますっ! いったい、どうしたっていうんですか……?」 眞杉さんの顔色が悪くなったのはどうやら私の所為だったらしく、彼女は慌てた様子で鏡を出して見せてくれた。 その小さな鏡に映された私の顔は眉間に深いしわが寄り、嫌だと感じる気持ちが露骨に表情に出ているようだった。 そう、つまりは…… 「なんていうか、見ないで済ませたいものほど目に入って来るのはなぜかと思ってね……」 そう言って大きなため息をついたのと同時だった。私の隣と眞杉さんの横の席に、食事のトレーが置かれたのは。「ここ、空いてるよね?」 ニッコリと微笑んで眞杉さんに尋ねるのは、確か別の部署の男性社員だった気がする。そして私の隣でその様子をニコニコと見ているのは、取り巻き